藤戸まんぢゅう

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①藤戸寺 −ふじとじ−

寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(704年)、海中に浮かび上がった千手観音像を本尊として、天平年間(724年〜748年)に行基菩薩が創建した真言宗の寺院。
のちの寿永3年(1184年)、藤戸合戦において戦功を上げ、この地を拝領した佐々木盛綱によって、合戦で荒廃した寺院の修復や両軍の戦没者などの供養のための大法要が行われた。
また、寛永元年(1243年)に源平合戦の供養塔として建立されたといわれる「石造藤戸寺五重塔婆」は、岡山県指定重要文化財に指定されている。

倉敷駅よりバス20分 藤戸寺バス停下車

②盛綱橋 −もりつなばし−

藤戸・天城の架橋は正保4年(1647)に始まり、この地は四国往来の要衝、また川湊として栄えていた。大正15年、舟運を考慮して無橋脚のトラス橋を建設。源平藤戸合戦で先陣の名声を挙げた源氏の猛将佐々木盛綱にちなみ、「盛綱橋」と命名。現在の橋は平成元年に建てられ、今もなお親しまれている。

倉敷駅よりバス20分 藤戸寺バス停下車

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経ヶ島 −きょうがしま−

もともとは藤戸寺の境内であった小さな島に、佐々木盛綱によって行われた大法要で写経した経を埋めて経塚(宝篋印塔(ほうきょういんとう))を建てたことから、「経ヶ島」と呼ばれるようになった。
経ヶ島には宝篋印塔のほかに、藤戸合戦をおさめるきっかけとなった浅瀬の場所を教えた漁夫が、口封じのために盛綱によって殺害され、その供養のために建てられた六角形の石塔婆がある。

倉敷駅よりバス20分 藤戸寺バス停下車

④天城陣屋跡 −あまきじんやあと−

初代池田由之は、児島郡で3万2千石と下津井城を領するが、寛永16年(1639年)の一国一城令によって廃城となったため、当時城主であった2代由成により天城陣屋を築いた。天城陣屋は江戸幕府をはばかり、「お茶屋」と称され、この陣屋を中心に町づくりが行われた。

倉敷駅よりバス19分 天城上之町バス停下車

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⑤浮州岩跡 −うきすいわあと−

かつて潮の流れの速い藤戸海峡で、大きな岩が海中に浮き沈みをしていたことから「浮州岩」と呼ばれていた。その岩は豊臣秀吉によって「藤戸石」と呼ばれるようになり、京都の聚楽第(じゅらくだい)の庭に運ばれたのち、醍醐寺三宝院の庭へと移され、「天下の名石」として語り継がれている。
現在ではかつての岩があった場所に石碑を建て、浮州岩跡として伝えられている。

倉敷駅よりバス20分 藤戸寺バス停下車

⑥笹無山 −ささなしやま−

藤戸合戦で浦の男は佐々木盛綱の求めに応じ、浅瀬があることを教えた。彼の口から浅瀬を他の武将に語られるのを恐れた佐々木盛綱は、無慈悲にも人知れず斬り捨てた。浦の男と一緒に暮らしていた母は、息子の無残な最期を知り「佐々木と聞けば笹まで憎い」と山の笹を抜いた。謡曲藤戸において、盛綱の馬に縋り、無情な仕打ちを恨む哀切な筋書きとなっている。

倉敷駅よりバス20分 高速下バス停下車

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⑦鞭木跡 −むちきあと−

藤戸合戦の際に平家の陣に向かって海に馬を進めた佐々木盛綱が、小高くなった中州で持っていた鞭を海底に刺して馬を休めていたが、そのまま忘れて対岸に攻め入ってしまった。その鞭が根付いて巨木に育ち、地名となったと言われている。
藤戸寺には江戸時代に枯れたこの木を利用して、文政10年天城藩士山脇十二郎が彫刻した佐々木盛綱像がある。

倉敷駅よりバス20分 高速下バス停下車

⑧御崎神社 −おんざきじんじゃ−

藤戸合戦以前より古くから、住民の守護神として祀られていた社だが、佐々木盛綱が藤戸合戦へと出陣する前に社頭にあった松に旗を立てて戦勝を祈願したところ、大勝を収めることとなった。その神威にいたく感動した盛綱は、もとは小高い場所にあった社を現在地に移して社殿を造り、遷宮したとされている。

倉敷駅よりバス20分 高速下バス停下車

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